仕事がばたばたしたり、ハザマ編やったり、オンラインゲームやったり、TRPGのシナリオつくったり、自分という人間に向き合ったり。時間がいくらあってもな感じです。
特に自分という人間を考えたりするのは最高に楽しいです。
最近、年をとっていくという事象は人間に嫌いな人間をなくしていくのかなと思うのですが。
他人に対する嫌悪感がどうでもよくなってくるというか。
嫌なことは嫌なことなんだけど、嫌なことで人を嫌いにならないというか。
嫌悪感で自分の脳内を支配されないというか。
まあ、微妙な表現ですが。
他人の嫌な行為に動揺して自分の中から排除したいと思うキモチがなくなってきた、かな?
いや、怒るんですよ。ひとつひとつの事象に対して。
でもその人間を自分の中から悪いものとして排除する感情に支配されなくても、生きていけるようになって。
他人を許容する、という感情がずっと理解できなかったけど。
ああ、人間はこうやって自分にとって嫌な感情を覚えさせる人間を許容するのかと最近実感するのです。
それはひとつ固まった自分という人間が出来上がってしまったからなのか。
自分以外の人間からの影響が弱くなってくるのを実感して。
影響力が大きすぎないから、なんというか、自分がなぜその人間を嫌いと思うのか、自分から排除したいと思うのかに向き合えて。
いや、傷つくんだよ?嫌なことに。
でも排除する必要性まで感じないというか。
嫌いになるほどまでに至らないというか。
ああ、これが許容するという感情なのかなと。
これが自己をもつということなのかなと。
世の中に人に対して、こうして人間は年を追うごと許容を覚え、凝り固まって臨んでいくようになるのかと。
これがむかしから見てきた年をとった人間の固定観念になるのだろうなあと、感慨深く思う次第です。
もちろんこの自分の持った価値観が、自分の経験と自己の中のものでしかないことなど明白ですので。
あなたという人間の価値観の一部がみずほさんという人間に余分に影響される必要もないのです。
…うーん、自分の言葉のつたなさで自分の脳内をどれほど再現できてるのか。
自分の脳内を言葉に再現できる人間になれたらそれはそれは気持ちいいのだろうなあ。
再現はしている、しているつもりなんだけど。他人に伝えるときに変わっていないかと。


今週末がメガテンのセッションになるのはほぼ確実の様相。
ばたばたと決まるのな、日程(笑)


オンラインの友達にピンクが好きな人間は自分が好きな人多いそうですよとの雑学をいただきました。
その瞬間「大好きですよ、自分!」と叫んでしまいました。
自分を好きじゃない人に美徳を感じるのだとしたら、それは気持ち悪い文化だなと思いますです。
特別な自分でなければ愛せない人間は傲慢さか若さか。
ていうか、ぴんくという色の愛らしさに魅せられるのは自己愛人多いのか。おもしろいなあ。